リアルはどこまで行ってもリアル
ゲームもどこまで行ってもゲーム(挨拶
注目URLにこんなのがあった。
「人生は神ゲーだ : はてな匿名ダイアリー (URL:http://anond.hatelabo.jp/20070303100408)」
一通り読んでみた。
確かに面白い解釈だと思う。比喩表現や「ネタ」としてならいいのでは。
もちろんこの日記を書いた人が本気で「人生は神ゲーだ」などとは思っていないとは思うが。
…だよね?
一見前向きな考え方に見える。書いている人も相当テンション高いw
が、個人的な意見を言わせてもらえば、これほど後ろ向きな考え方もないな、というのが自分の率直な感想だ。
誰だって人生をハッピーに過ごしたい。
しんどいことや悲しいこともあれこれ理由付けして何とか自分にとってのプラス材料にしたい。
その考えは間違っていないと自分も思う。逆境をばねにして自分を奮い立たせ、成功に向かって邁進する、そんな人間も多い。
ただ。
その理由付けをゲームに置き換えるような方法は、ちょっと賛同できない。ごまかしっぽい。
「本気でがんばるとぎりぎり倒せるように絶妙のバランス調節がされた敵」
残念ながら本気で頑張ってもどうにもならない敵は現実に存在している。
結局のところゲームは、現実が別に存在しているからこそ成立する世界なのだと思う。
虚構だから。嘘だから。
どんなに感動しても、どんなにゲームで涙を流しても、どんなにゲームで血反吐を吐いても。
それは結局「他人事」だから。
責任が無いから。
だから楽しめる。
ゲームに限らず、映像や娯楽の全ては、繰り返しではあるが現実から逸脱した世界にあるからこそ成立する。
もちろんゲームや映画、演劇などで感動した事そのものを虚構とは言わない。
それは「現実で生きているその人」が虚構から得た確かな「リアル」だからである。
現実とは違うから、逃避できるのである。
人生を逃避先にはできない。
ここでオンラインゲームに触れてしまうと際限がなくなってしまうのでw触れないが
ネットの世界にも匿名性がある。
どんなに生の文章を作成して、仲間とリアルタイムで一喜一憂して、相手も同じ人間なのだから、とマナーを遵守を声高に叫んでも
「キャラクターはプレイヤーの分身」この言葉が全てを物語っている。
生きることそのものへの責任は一切無い。
自分もつたない芝居を生業にしているけど、芝居だって「虚構」である。「嘘」である。
「自分」では無い。
だからこそ、「自分でない存在」の歴史や人格、葛藤、生き様を表現するため、自分の内面にあるもの、人間の根っこのようなものを何時でも探して、取り出して、叩きつける。
「自分」にしようとする。それが楽しい。
矛盾しているようだけど「現実」でないものは「現実でないもの」であるが故に
「現実に引き寄せる」作業に魅力を感じるのだ。
人生をゲームと言ってしまえる人は、ゲームだと思いたい、と願望しているだけなのではないだろうか。
考え、望んでいるだけ。
自分がゲームのキャラクターなら、「自分」を操作し、コントローラを握っているのは誰だ!?
ゲーム内の登場人物はその世界で生きている。自分で自分を客観的に見て手綱を握っているわけではない。
怪我して血が出たら「●●のダメージ」の前に痛いと「感じる」だろう。
情動や本能というものは理屈じゃない。
やばい。
書いてて自分の文章にムカついてきた。