仏の顔も3℃まで

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…という挨拶すら懐かしいな…みなさん元気に趣味に邁進されてますか?


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客観的…か。

言われてみるとよく分からないな(挨拶


知人のブログで「小5から英語教育をすることの是非」について書いてある内容を見た。
コメントしようとしてえらく長くなりそうだと思ったので、自分のブログで自分なりの考えを書いてみたい。
思う様浅慮なので、ご覧になった方は「そうぢゃねえよオマエ」とか「まだまだだね」とか鼻で笑っていただけると幸いだ。




さて、肝心の記事の内容だが

小学生に英語を学ばせるかどうかについて検討してきた中央教育審議会文部科学相の諮問機関)の外国語専門部会は27日、5年生から週1時間程度を必修化する必要がある、との提言をまとめた。社会のグローバル化の進展に加え、すでに小学校でゲームや歌などを通じて英語に触れる「英語活動」が9割以上の公立小学校で実施されている実情を踏まえた。
同部会は31日に、この提言を上部機関である教育課程部会に報告する。ただ、中教審全体では、小学校から英語を教えることについて、「他の教科をしっかりやった方がいい」「国語の習得が先ではないか」などの異論を唱える委員もいる。文科省は、中教審での今後の議論や世論の動向を踏まえ、実際に導入するかについて検討する方針だ。導入する場合には、現在改訂作業を続けている学習指導要領の実施時期に合わせる案が有力で、移行期間を含めて4〜5年先になる見通しだ。
文科省の調査では、公立小の6年生は現在、平均して年間13.7単位時間(月に1〜2回)の「英語活動」を実施。主に「総合的な学習の時間」を利用している。 こうした実態を踏まえ、専門部会は「高学年は、中学校との円滑な接続を図る観点から、年間35時間(週1回)程度で共通の教育内容を設定することを検討する必要がある」と提言した。


今回の内容、いくつか考える内容があると思う。
審議において反対派のもつ強い意識
「母国語でコミュニケーションを取れない人間が多いのに、どうして子どもに英語でコミュニケーションをさせようというのか」
という点。
以前からあった「日本語の乱れ」という問題を蒸し返すようだが、どちらかといえば自分もこうした意識を強く持っている。
ぶっちゃけ乱れすぎ。
言葉遣いの善し悪しではなく、あまりにTPOを弁えない引用・発言・尊敬表現のオンパレードだ。
これは日本語の教育に問題があるのか。
むしろ、もっと道徳的な問題ではないのか。
自分は芝居を学ぶ人間であるが、自分の師匠は常々
「演劇という側面から日本語の素晴らしさ、人との結びつきを育む素晴らしさを伝えたい」
と息巻いている。自分もその考えに共感する。
ただ台本のチョイスが別役実とか、若干偏りすぎやしませんか、お師匠w
演じる方は頭痛のラインダンスが楽しくてたまりません。


話を戻して。
そも母国語と呼べる言語が自身に染み込み、物事や人、自分の感情の機微を不完全ながらも感じ取り、その後で初めて言葉として自分の意見を伝える…。
そういった土台を自国の言語でしっかり作っておかなければ、どれだけ英語教育を早くからスタートしても何の意味も無いのでは。
「知っている」のと「知っていることを駆使できる」のは全然違う。
「知識」は「知恵」に昇華させてこそコミュニケーションに活用できると自分は考える。


自分は「観る」という言葉が好きだ。
凝視するでもなく、視界に収めるだけでもなく、全体を見据える力、それが「観る」
視覚のみの概念に囚われない、自由な、かつ曖昧なこの言葉が好きだw
客観的という言葉があるが、客観的と主観的という言葉はスタンスの違いでしかない。
物事や人の感情を「観た」あと、あるいは「観ている」最中、さて自分はどうする?と、獲得してきた「知恵」を自分のフィルターを通して感じる、分析する、それが主観…かな。
客観には感情の補正が効かない。主観は個人の感情に左右される。それだけの、しかし大きな違い。


この違いを母国語でしっかり学ばないと、どれだけ多国籍の言語を学んでも活用には程遠いのではないだろうか。
付け加えるなら、その勉強をコレだけ繊細かつ美しい日本語で行えるのだから、日本人はラッキーだ!とかヌカすのはエゴだろうかw



もうひとつ。「どうやって英語を教えるの?」という点。加えて英語教育前倒しの目的も疑問。
受験対策の英語しか教えないのなら何歳から教えても価値は生まれないと思うが。
前述の内容とかぶるが、英語を「知っている」だけで、英語が「できない」日本人を量産するだけなら、小5からの教育なんて必要ない。
せっかく「必要だ」と意見を唱えたのだから、システムから見直さなければ。
もちろん素晴らしき母国語の教育と同時進行で。


これって小5に限らず、全ての年代がやらなきゃいけないか?