仏の顔も3℃まで

はてなダイアリー終了に伴いお引越し。思い出は残しておこう…。


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…という挨拶すら懐かしいな…みなさん元気に趣味に邁進されてますか?


↑web拍手です。ここで会ったのも何かのご縁。うっかり読んじゃった記念に押して下さいませ。

時には昔の話を

…返せない恩があるなら せめて忘れないように(挨拶


つい最近、あるきっかけで知人が家族と衝突しかけた、という話を知った。理由は知人の将来の事。
本来ブログで知人の家庭の事情に触れるのは主義に反するが、その方の置かれた状況があまりに過去の自分と重なることに衝撃を受け、何か書いてみたくなった。もしその知人がこれを読んでいたら、深く謝罪すると共に、自分の体験が少しでも参考になってくれることを願う。





自分は役者を職業としている。



と書けば格好はいいが、実際はそれだけでは食べていけない。昨日、一昨日、一昨昨日とブログにも書いたが、それ以外に金銭を稼ぐ場がなければとてもやっていけない。ましてや自分の趣味嗜好という奴はかなりの金食い虫だw



自称「役者」など、この日本には履いて捨てるほどいる。
海外では考えられない話だが、日本は「演技」をする場の横の隔たりに乏しい。舞台に立とうと思えば誰でも立てるし、舞台人がテレビに出演することもある。その逆も見られる。
他にも例を挙げればきりがないが、「やる気」さえあれば何時まででも携わっていられる世界なのだ。もちろんその仕事の規模の大小や成否を度外視した上での話ではあるが。



もどかしくなる瞬間がある。ずっと芝居がしていたい。四六時中芝居の事だけ考えていたい瞬間がある。実際はそうではないし、それでいいとも思う時もある。他に守るべきものもあるし、それらと芝居は、そもそも自分の心の中でのありようが違う。比較することはおろか、優先順位をつけるものでもない。
その点では、自分は以前とは違うスタンスで、常に演技のことを考えている。



大学に通っていた過去の自分の心情とは随分隔たりが出来たものだ。当時の(といっても大して昔でもないが)自分は、とにかく結果のみを求めていた。親の庇護下で生きる自分に我慢がならず、また、学歴を何よりも重んじる親戚一族への反発心でいっぱいだった。



何か連中の知識の及ばぬ世界で、一旗あげてやろう、そう思っていた。
実際は親の金で大学に通いのうのうと過ごす立場で、そんな馬鹿馬鹿しいことを考えていた。子供だった。



自分はアニメが好きだ。映画が好きだ。ラジオが好きだ。
すぐに頭に浮かんだ選択肢は、声優だった。きっかけなんてそんなものだ。
最近は声優を志望し養成所に通う人の数も緩やかに減少していると聞く。自分の年代が最も活気に満ちていた、というよりは声優ブームの最盛期だったのだろう。


大学に通いながら、養成所を探した。必死でバイトをして金を貯めた。
最初に通ったのは専門学校だった。アナウンスの勉強もしつつ、演技の基礎から叩き込まれた。手広くやらせてくれる学校だった。その「手広く」の意味も分からぬまま、勉強した。楽しかった。



当然、大学での単位取得が疎かになった。留年しかけた。試験の成績の問題ではなく、それ以前の出席率の問題だった。





何度も、家族と衝突した。衝突の言葉通り手が出た。出された。
家族は、自分の選ぶ将来がなんなのか分からなかった。当然だ。自分も分かっていなかった。「分かっていない」という事すら、当時の自分は話をしなかった。
養成所に入って、事務所に入れば仕事がもらえる、活躍できる、そんな考えを本気で抱いていた。もちろんそのための努力もした。
初めてお世話になった事務所では、ひとつも仕事がなかった。次の身の振り方もままならないまま追い出された。あの時の事は…あまり思い出したくない。
そんな自分の姿に、両親は憤った。
「普通」とはなんなのか。家族の考える「普通」から見れば、自分の考える将来は随分と足元が不確かで、それを自分が理解していないように写ったのだろう。事実だから始末が悪い。


「なんだか分からないが、子供の決めたことだ、黙認する」というのと
「よく話し合い お互い理解したうえで 経過を見守る」のでは大きく違う。


黙認は あまりに寂しすぎた。それを許容できる家族ではなかった。
我慢の限界だったのだろう。
自分の理解できないことを「間違い」としたくなったのだろう。


ただ 自分の全てを心配してくれた



その態度に、自分は反発した。やはり子供だった。
親離れせず、子離れもなかった。甘く、ヌルかった。


移り行く流れに、どちらも対応できなかった。そういう世界なのだと気付かなかった。






とにかく 話をしなかった。勝手に決め、勝手にやった。


それでもいいのかもしれない。自分の尻拭いが自分で出来るのなら。そういう方も沢山見てきた。勘当同然に家を飛び出し、未だ音信不通状態のまま東京で活躍されている人もいる。



自分と自分の親は、そうではなかった。



庇護に慣れ、家族をないがしろにすることに居心地の悪さを感じる自分。なのに話をしなかった自分。
とにかく職を得るまで、子供の将来を見届けるのが「普通の」親のありようだと使命だと信じて疑わなかった(今もそうだろう)両親。




真剣に話をするようになったのは、情けないことに自分の金が尽きた時だった。その頃には自分の興味が、声のみでなく芝居そのものに移った時だった。
携わり方は軟派だ。大先輩から芝居をなめるな、とお叱りを受ける。それでも、ここで活きようと心底思えた。



世界を調べた。家族も家族なりに調べていた。話した。とにかく話した。涙を流した。
家族は納得はしなかった。が、以前よりも表情が柔らかく見えた。


金を借りた。


大学を出た。留年はせず、きっちり四年で出た。それが両親との約束のひとつだった。中途半端が嫌いなのだ。息子はこんなに中途半端なのに。
就職はしなかった。一から勉強をしなおした。
それを支えてくれる人もいた。


地元を離れることはなかった。それも甘えだろうか。
長時間の移動が苦痛に思えるときもあった。移動時間を有意義にする為、試行錯誤した。
必要だと思うことは、自分の考え付く範囲で何でもやった。自分の裁量、というのが曲者だが。


声の仕事も諦めなかった。性懲りもなく養成所に通った。そこで出会った人々と未だに芝居の世界で縁があるのだから不思議な話だ。



…が、やはり声はモノにならなかった。某アニメに出演したが、ボロクソになじられて帰ってきた。おそらく、もう二度と使ってはいただけないだろう。


悔しくて、その日も泣いた。
泣けるほど悔しいものがあるのが、誇らしかった。
でも 残念でならなかった。だから泣いた。



慰めてもらった。
傍にいてもらった。



芝居は続けた。まだまだレベルが伴わないが、色々声をかけていただけるようになった。自然と多くの方と顔を合わせるようになった。微々たる物だが収入も得るようになった。


稽古中も、やっぱり泣いた時があるw
共演者の方は自分が何故泣くのか理解できなかったらしく、おろおろしていた。
今を全力で、次はもっとよりよく、そう思うように自分の尻を叩いた。



自分は今、ここにいる。


果たして自分は、何かを諦めたのか。何かに妥協したのか。夢敗れたのか。




恐らくそうだろう。ラクな生き方を見つけたのだ。
一方ではそうではないのかもしれない。時間が流れていった結果。それだけなのかもしれない。今もってやきもきする両親の姿を見るのは心苦しくはあるがwそしてその不安のタネが仕事だけでないというところも、またなんともw



もちろん、このままで終わるつもりはない。



知人も、同じような岐路に立っているのかもしれない。
家族とどう接するか、避けては通れない。どんな選択をしても、だ。
後悔もあるだろう。しかし、後悔は自分で物事を選択した人間だけが出来る特権だと考える。それ以外の人間は後悔をしない。「言い訳」をするのだ。


自分はどっちだ?




現在、自分と家族の仲はそこそこ、だ。
結局親離れ、子離れが出来ないままだと思うw
自分は彼らに、何をするべきなのか。家に金を入れている。話をする。舞台を観てもらう。
正直、どれもピンと来ない。
両親も、きっと自分に対して未だに思うところがあるだろう。
お互い、墓までこの命題を持っていかねばならないのだろうかw



親父は定年を迎えた。悠々自適の生活だが、時折顔を合わせると、少し寂しげな表情を浮かばせる時がある。



書いている内に、知人の話から大きく脱線していたように思えなくもない。
そもそも初めから関係ない話にも思えなくもないw


ま、いいや。




恩は遠くから返せ、とはよくいったものだ。近くにいるとどうにも困る。




また、酒でも飲みに行くか。